INTERVIEW

- 西日本豪雨 その時地元紙は -

(写真はコロナ禍以前に撮影したものもあります)

「新人記者が見た西日本豪雨」


 2018年7月7日午前7時ごろ、報道部長から現場へ向かうよう電話が入りました。「総社市に孤立している地区があるようなので現地で確認を」との指示でした。社有車に乗り、途中先輩と合流して向かいました。この時は、被害の大きさを掴んでいませんでした。

 西へ向かう幹線道は、既に渋滞が始まっていました。遠回りですが北側の山中を抜けて現場を目指すことにしました。土砂崩れしているところもありましたが、運転席の先輩はスピードを緩めません。早く抜けなければこの道も封鎖される可能性があったからです。崩れた砂の山と車体の底がこすれて振動も衝撃音も激しく、生きた心地がしませんでした。

 普段なら1時間かからない総社市に到着したのは、出発から約2時間後。しかし、肝心の目的地は水に阻まれ、消防隊でさえたどりつけていませんでした。それでも少しでも近付こうと、冠水した国道180号を歩いて北上しましたが、やはり難しく、断念。現場に入れたのは、水が引いた夕方からでした。


■被災地取材

 きつかったのは翌日からでした。雨が上がり、太陽がギラギラと容赦なく照りつけます。総社市に接する倉敷市真備町地区に入ったのですが、泥だらけでぬかるみが残る町は、至るところがひび割れ、土ぼこりが舞っていました。各所で交通規制があり、思うように移動できません。携帯電話がつながりにくいので、取材先や本社はもちろん、現場の記者同士も連絡が取りづらい状態が続きました。インターネット回線も不安定で、場所を確認しようにも地図アプリが使えません。

 連日猛暑だった上、最初の数日間は長靴にかっぱ姿だったので、本当に倒れそうでした。考える余裕もなく、現場の写真を撮ったり、片付けに戻ってきた住民に被害状況を聞いたり。発生から1カ月は、休みの日以外はほぼ毎日、避難所を訪ねました。被災地の光景、被災者やボランティアの感情は、刻々と変化していきます。それを記録するのが仕事でした。避難所の掲示板や被災者の口コミを頼りに情報を集めました。


■迷い苦しんだ日々

 とはいえ、記者になってまだ2カ月の自分にとって、突然家がなくなった人、家族を失った人に話しかけるのは、とてもハードルの高いことでした。どんな声のトーンで、どこまで聞いていいのか。そもそも自分のやっていることは正しいのか。自問自答する日々でした。

 「君ら、いい髪の色しとるな」。泥だらけになっても風呂にも入れず、片付けに追われる被災者に対して、身ぎれいにしてズカズカと入り込み、話を聞く自分。迷いがあっただけに、言葉は心に刺さりました。

 そんな私を励ましてくれたのは、現場で一緒に動いていた先輩たちでした。「話を聞いて記録を残すことが、記者の仕事。自信を持って」「遺族取材は、死んだ人を紹介するためのものじゃない。こんな人がなぜ亡くならなければならなかったのか、生きた証を残すためだ」―。一言一言から、「記者」という仕事に向き合う姿勢を学びました。


■記者としての使命

 現場に通い詰めると、取材相手と感覚が近くなっていくのでしょうか。いつの間にか、取材は何気ない普段の会話から始め、決して「大変ですね」「頑張ってください」は言わない、自分の中にそんなルールができていました。一部マスコミに見られた、被害のひどい「場面」を求めるような取材姿勢には違和感を覚えました。その報道で傷ついている人たちもたびたび目にし、同じマスコミの人間として、考えさせられました。

 家が泥で埋まり、家族を失った被災者の気持ちは、経験のない自分にはわかりません。むしろ分かったつもりになってはいけないと思います。わからないからこそ、丁寧に話を聞き、少しでもその人の思いをにじませる記事を書きたい。私たち地元紙は「地域の記録を残す」という役割があります。これから部署を異動になっても、何らかの形で町の変化を追い続けるのが、発生時に携わった記者としての自分の使命だと思っています。



片岡 尚也(かたおか しょうや)

編集局運動部

2018年4月入社。教育学研究科修了。報道部、備前支局を経て23年3月から現職。