INTERVIEW

- 西日本豪雨 その時地元紙は -

(写真はコロナ禍以前に撮影したものもあります)

「被災者と歩む 復興への道」

 被災直後は「茶」一色だった倉敷市真備町地区に、少しずつですが色彩が戻ってきました。その一方で、将来に不安を抱える人も大勢います。

 「今何しとる?」「次はいつ来るんかな?」―。取材で出会った仮設住宅の高齢男性は、頻繁に電話をくださります。別の仮設住宅で独り暮らす高齢女性は取材中、被災の苦しさに触れて「死んだ方がいいんかね…」とこぼしました。慣れ親しんだコミュニティーから突然切り離された人たちは、今も、やり切れない孤独や寂しさの中にいます。


■追い続ける

 被災地が少しずつ歩を進める中、被災直後と比べると、大きく姿を変えた場所があります。その一つが倉敷市役所の記者クラブです。

 被災からしばらくは、全国紙や通信社、テレビ局の記者らが多いときで10人以上も詰め掛け、机が足りなくなるほどでした。1年余りたった今、彼らは全国各地にある次の取材現場へと移っていき、常駐しているのは主に本紙記者となりました。

 私もいつか、異動になるでしょう。しかし、岡山を拠点とする山陽新聞社の場合、赴任先の多くは岡山県内。被災された方たちの中には、古里を離れて県内広範囲に点在する「みなし仮設住宅」などに身を寄せている人も多いですから、次の赴任先でお会いすることもあると思います。どこにいようと変わらず被災された方たちに寄り添い、復興への歩みを追いかけたいと思います。


■感情の「色」を届ける

 記者の仕事は、現場に足を運び、話を聞くこと。困難を抱えた人を取材した記事が、倉敷市議会で取り上げられ、議論が進むこともありました。「誰かの役に立ったのでは」と感じた瞬間です。

 被災地には今も、わき上がるような怒りや悲しみ、行き場のない気持ちが渦巻いています。見聞きしたことを自分の認識に沿うようにゆがめるのではなく、そこにある感情の「色」を真空パックするようにして持ち帰り、鮮やかなまま読者に届ける―。それができる記者でありたいです。



石井 聡(いしい さとる)

編集局報道部

2007年4月入社。教育学部卒。社会部(現報道部)、玉野支社、政治部(現報道部)、倉敷本社編集部などを経て20年9月から現職。倉敷本社勤務時代、倉敷市政担当として同市真備町地区をはじめとする西日本豪雨の被災地を取材した。