INTERVIEW

- 「ハンセン病」を取材して -

(写真はコロナ禍以前に撮影したものもあります)

 報道部の阿部記者は、2016年に日本医学ジャーナリスト協会賞大賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した連載企画「語り継ぐハンセン病-瀬戸内3園から」を担当しました。この企画は15年1月から16年3月まで79回にわたって山陽新聞朝刊に掲載。連載当初より取材関係者から「記録として残してほしい」との要望があり、17年3月に単行本化しました。記事は広島、香川県の中学校で人権教育に使われるなど、教育現場でも活用されています。
 企画のきっかけや取材中のエピソード、連載を終えての感想を聞きました。

取材のきっかけ


 ハンセン病の取材を始めたのは2013年の夏でした。患者隔離の島だった岡山県瀬戸内市の長島と本土を結ぶ邑久長島大橋の架橋25年に合わせた連載の取材を始めたのがきっかけです。しかし、思わぬ困難に直面しました。偏見を恐れて取材に応じてくれる人が少ない上に、証言してくれるはずの入所者は平均年齢80歳を超え、既に亡くなっていたり、認知症だったりするケースが多かったのです。このままでは証言が埋もれてしまうという危機感から当時の社会部(現報道部)で企画案を出し、後輩記者と2人で取材することになりました。

偏見や差別


 ハンセン病は偏見・差別の強い病気です。「感染力が強い」と誤って伝えられていたことに加え、外見に変化が表れやすい特徴や遺伝するという誤解があったことなどが背景にあります。患者本人だけでなく家族まで差別されるため、入所者は療養所で偽名を使い、社会から身を隠すように暮らしてきました。そんな相手から詳細な話を聞くには、自分という人間をよく知ってもらい、信頼を得るしかありません。多い時は療養所に毎日のように通って顔なじみになり、少しずつ距離を縮めていきました。そうして得られた証言も高齢のため記憶違いがあり、資料と突き合わせて一つ一つ確認するという根気のいる作業が欠かせませんでした。

「声なき声」を聴く


 記者は事実を追い求めるのが仕事ですが、「事実」は往々にしてどの立場から出た情報かによって変わります。社会的立場がある人の大きな声にマスコミを含め社会は流されがちです。しかし、それは一面でしかありません。国の誤った隔離政策が長い間放置されてきたハンセン病問題もその一例でしょう。社会的な問題では、立場が弱く、物言わぬ人にこそ真実が隠されているのでは、と思います。取材では「声なき声」を聴くことを常に心がけています。

地域で生きる


 私は駆け出しのころ、「記者に向いていないのでは」と悩んだ時期もありました。取材も記事の執筆もうまくできず、情報を得る能力も特段ありません。それでも続けてこられたのは、取材を通じてさまざまな出会いがあったからです。この仕事は多様な価値観や考え方を学べ、自らの視野を広げられます。地方に根を張る新聞社なので、取材対象の方々とは長く付き合うことも多く、地域の課題を自分のこととして捉えられます。私はハンセン病の取材を通じて療養所の世界遺産登録を目指す運動に関わっています。社会の多様な人とつながりながら、地域と真剣に向き合える仕事はほかにない、と今では思っています。



阿部 光希(あべ みつき)

編集局報道部長代理

1996年4月入社。経済学部卒。

笠岡支社、経済部、文化家庭部(現文化部)、論説委員会などを経て2023年3月から現職。